一家の命運を左右した龍造寺隆信の「決断力」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第78回
■肥前統一を達成した龍造寺隆信の攻勢
隆信は再度、蒲池家の協力を得ると反転攻勢に打って出て、旧領の奪還に成功します。その後、主家筋であった少弐家や千葉家を駆逐し、少弐家の旧臣たちを服従させて肥前国東部での影響力を高めていきます。
1563年には、有馬家と大村家による連合軍を破り、1569年に豊後国の大友家の侵攻を撃退したことで、肥前における龍造寺家の勢威を強めます。
隆信は大友家との和睦の条件を無視するように、肥前国内の敵対勢力を攻め、大村家や有馬家などの有力な国人領主を従属させて、念願の肥前統一を達成します。
1578年に大友家が耳川の戦いで島津家に敗れ、多くの重臣を失い勢力を弱めると、すかさず大友家の支配下にあった、筑前国や筑後国などに食指を伸ばし、これを支配下に組み込んでいきました。
さらに肥後国にまで影響力を伸ばし始めると、勢力拡大を図る島津家と対峙することになり、秋月家の仲介により和睦し、肥後国の北部を支配下に置きます。その結果、肥前国、筑前国、筑後国、豊前国、肥後国に勢力を有したことで、「五州二島の大守」という異名で呼ばれるまでになりました。
隆信の「決断力」により、龍造寺家は一介の国人領主から大大名にまで急成長を遂げましたが、一方で家中に綻びが生じていきます。
■独善的な「決断力」が生んでいった綻び
隆信は過去に辛酸を舐めた経験の影響か、非常に警戒心が強く冷酷だったと言われています。もう一つの異名である「肥前の熊」はそこから付けられたものです。
1580年には島津家と内通したという疑いにより、大恩ある蒲池家の当主鎮漣(しげなみ)をだまし討ちにて誅殺し、その一族も討滅しています。
その3年後に、鎮漣の舅である赤星統家(あかほしむねいえ)の謀反を疑い、弁明のための呼び出しに応じなかったため、幼い人質の兄妹を見せしめに処刑しました。
この頃から人心が離れ始めたと言われています。また、直茂を筑後国の統治を任せるとして柳川城に封じますが、これは諫言(かんげん)の多い直茂を疎み遠ざけるためだったとも言われています。
このような状況を見て、従属していた有馬家が島津家に通じて謀反を起こします。
隆信は持前の「決断力」により、すかさず軍を出して有馬家攻略を命じています。さらに島津家の援軍が北上することを知ると、隆信自らが大軍を編成して出陣します。
直茂たちが持久戦を進言したものの、隆信は大兵力による力攻めを決断し、地理的に不利にも関わらず狭隘(きょうあい)で足元の悪い沖田畷での決戦を図ります。
そして、龍造寺軍は島津家の得意とする伏兵を使った戦法によって壊滅させられます。
この大敗の混乱の中で隆信は討ち取られ、重臣の多くも討死してしまいました。その後、弱体化した龍造寺家は支配領域を大幅に狭め、実権を鍋島家に奪われてしまいます。
■「決断力」は失敗にも大きく関わる能力
隆信は、その「決断力」によって、国人領主クラスであった龍造寺家を、一代で北九州を席巻するほどの勢力に成長させました。
しかし、晩年はその冷酷さから人心が離れ、また諫言を遠ざけるようになり、最後は敗北の可能性が高い一戦を決断して討死してしまいました。
現代でも、経営者の「決断力」で組織を拡大してきたものの、独善的になりすぎて壊滅的なダメージを負う例は多々あります。もし、沖田畷での大敗がなければ、龍造寺家は鍋島家に簒奪されることなく、大名家として存続できていたかもしれません。
ちなみに、隆信の子孫は幕府と佐賀藩を巻き込んだ騒動を経て、会津藩士として明治まで家名を伝えたようです。
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